最近、何かの問題につけて「責任」という言葉が目につくようになった。
●金融危機ではサブプライムローンが証券化を繰り返され、投資家に転売されたことによって、「責任」の所在があいまいになった。
●(少し古いが)「納豆ダイエット捏造」問題は、民放番組はテレビ局から下請け・孫請け・曾孫請けと多段階に細分化されて制作されるため、「責任」が分散していた。
●学校の教師から子供の万引きを捕まえた小売店に理不尽なクレームをつける無「責任」なモンスターペアレントが急増している。
など、責任の所在のあいまいさや責任感の欠如なども一因となった問題だろう。責任の所在は基本的に明確にすべきだ。しかしモンスターペアレントの問題で、例えば「子供のしつけは親、学力は先生」などと責任の所在を明確にすればどんなことが起きるかは書くまでもないだろう。つまり、責任の所在を明確にすることと、自分の責任の範囲を限定することでその他に関しては他人に押し付けることは表裏一体である。
また、花王に救われた消費者庁と消費者委員会ー松永和紀blogというエントリーでも指摘されている日本人の「ゼロリスク志向」(無謬信仰)がこの問題を助長している。なにか問題が起こり、責任が追及される際に「完璧でなければならない」という感情的スタンスで責任を追及しようとすると、かえって本質を見誤ってしまう恐れがある。
少し前のBSE問題でも、科学的にリスクは日本人の人口に対して0.1~0.9人とされていたのに「リスクがゼロではない」という理由で農水省は輸入禁止措置をとった。
基本的に、責任の所在はハッキリしていて、各人も責任感は強い方がいい。しかし、責任の所在を明確にすることの副作用や、感情的に「ゼロリスク志向」に陥る危険性も、「責任」問題では十分考慮されるべきなのだ。